COURSE

つるおの画像

天下泰平を遂げた、その後の歴史を知るコーーーーースじゃな。
清州越しや東海道など、家康の街づくり施策は今もあちこちで受け継がれ、残されておるぞ。七里の渡し、碁盤割、堀川などを見てまわり「家康と名古屋」を存分に体験したまえ!

大河ファンもまだ見ぬ!?

今もその名残がそこかしこに、家康が大改革した名古屋の街を歩く

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名古屋駅

地下鉄
東山線 名古屋駅〜栄駅〜名城線名古屋城駅(8分)

名古屋城/本丸御殿

徒歩
3分(250m)

なごや堀川クルーズ

朝日橋乗船場〜納屋橋乗船場(船で15分)

碁盤割地区

徒歩
すぐ

朝日神社

徒歩
22分(1.7km)

四間道

徒歩
徒歩3分(220m)

五条橋

地下鉄
桜通線 国際センター駅〜久屋大通駅〜名城線 熱田神宮伝馬町駅(19分)
01

名古屋駅

02

名古屋城/本丸御殿

本丸御殿

徳川家康の九男・義直の
住居として建てられた本丸御殿

名古屋城の一角をしめる本丸御殿は、尾張徳川家初代藩主・義直の住居かつ藩の政庁として1615年に完成。絢爛豪華な障壁画や飾金具などが飾られ、近世城郭御殿の最高傑作と称えられた。1945年の空襲により焼失したが、2018年に現代の名工たちの協力を得て復元。三代将軍・徳川家光の宿泊場所であった上洛殿には、狩野派による襖絵や天井板絵、きらびやかな彫刻欄間、飾金具など、贅の限りが尽くされている。

本丸御殿(手前)と天守閣(奥)

国の特別史跡に指定される
名古屋のシンボル

1610年、徳川家康が九男・義直の居城として普請を開始し、豊臣恩顧の西国大名20家により、1612年に天守が完成した名古屋城。史上最大の延床面積を誇った大天守や天守を飾る金の鯱のほか、鉄壁の守りを固めた要塞としての機能を備えていた。城郭として旧国宝第一号に指定された名城だ。
※天守閣は設備の老朽化や耐震性の確保などの問題に対応するため、現在は閉館中。

03

なごや堀川クルーズ

春には舟上から桜も楽しめるかも

水上散歩をしながら
名古屋の町並みを満喫しよう

名古屋のほぼ中心部を南北に流れる堀川は、名古屋城下と熱田を結ぶ川として徳川家康の命で1610年に福島正則により開削されました。春と秋には、名古屋城前と納屋橋の乗船場の間を屋根のないオープンタイプの舟が運航(土曜、日曜、祝日限定)します。舟に乗って眺める名古屋の町並みは、いつもと違う表情をみせてくれるかも。なごや堀川クルーズに乗って、名古屋・堀川の歴史探訪を楽しもう!

秋にはナイトクルーズの運航も予定

特別な便でいつもと
違ったクルーズを楽しもう

季節によっては、通常のクルーズとは一味違った特別な便を運航しています。名古屋おもてなし武将隊がクルーズに乗船してガイドをしてくれるプランや夜の堀川を周遊するナイトクルーズも予定されているのでチェックしよう。堀川の新たな魅力を発見できること間違いなし!

04

碁盤割地区

碁盤の目のように整備されたことから碁盤割と呼ばれる

いまも都心部に引き継がれる碁盤割の町

徳川家康の命により清須城の周囲の町ごと名古屋城下に移動させた、通称「清須越」によって作られた名古屋の城下町は、「町割り」と呼ばれる都市整備手法がとられた。
「町割り」では、武家の町、寺社の町、町人の町が城の周りにそれぞれ配置され、名古屋城の正面に置かれた町人の町は、碁盤の目のように縦横に直角に交わる街路で整然と区画され「碁盤割の町」として栄えた。
昭和に入り、太平洋戦争の空襲により壊滅的な被害を受けたが、区画の形は概ね現在に引き継がれており、当時の面影が感じられる。

札の辻跡(伝馬町通本町交差点)のモニュメント

通りの名として残される町名

名古屋城の正面に99のブロックをつくり、直角に交差する道で真四角な区画で形成された町。本町、京町、伊勢町、長島町、長者町、伝馬町、呉服町などの町名は、通りの名として今も残されている。伝馬町通本町交差点は、法度・掟書などを記した高札を掲げる高札場が設けられたことから、札の辻と呼んだと言われている。

05

朝日神社

天照大神と天児屋根命を御祭神に祀る

碁盤割り地区唯一の神社

名古屋城築城の際、家康が正室にあたる朝日姫(豊臣秀吉の妹)の氏神である朝日神社を城下町(碁盤割り地区)の守護神として清須から移すよう請願。「清須越」と同時に、伊勢神宮の神領地であった清洲城下の朝日村から、現在地に移築遷座されたと言われている。以降、碁盤割り地区の唯一の神社として崇敬を集める。

江戸中期に建てられた不浄除け

2021年に透垣(不浄除け)が
登録有形文化財に登録

広小路通に面して立つ透垣は、江戸時代に神社の向かいにあった尾張藩牢屋の「不浄除け」の名残。引立てられる罪人を神様に見せたくないとして、目隠し用として建てられたものと言い伝わる。江戸中期に建てられた現存の塀だ。

06

四間道

高さ1m程度の石垣が築かれ、その上に多数の土蔵が立ち並ぶ

土蔵群と町家が城下町の面影を残す

1610年に始まった家康による「清須越」にともない形成され、堀川の舟運を利用する商人の町として発展。現在も商人の栄華の跡である土蔵群と町家、伝統的な建造物が立ち並び、城下町の面影を残している。「四間道」という名前の由来は諸説あるが、1700年の大火後に防火を目的に道を4間(約7m)に整備されたからともいわれている。

民家の屋根の上に祀られている屋根神様

下町情緒を感じる路地空間

西側の地域には、路地の両側に平家建や2階建の長屋が立ち並ぶ。当時、新たに社を建てる空き地がなかったため、民家の屋根に小さな祠を設けて「屋根神様」を祀ったといわれている。狭い道と住居によって形成された路地空間は、この地区の歴史的特質を示している。

07

五条橋

名古屋市の都市景観重要建築物に指定

堀川で初めて架けられた橋

元は清須を流れる五条川に架かっていたが、家康による「清須越」の際に現在の地に移築。堀川で初めて架けられた橋でもある。幾度となく改築を重ね、現在の橋は1938年に架けられた木造の橋に似せたRC造の三径間桁橋となっている。石の欄干、石畳、御影石の親柱、擬宝珠が特徴で、名古屋市の都市景観重要建築物に指定。

現在「慶長七年」と刻まれた擬宝珠は名古屋城に保存

「清須越」で運ばれてきた証拠

現在の橋に架けかえる以前、柱の上に設けられた飾りの擬宝珠には「慶長七年」(1602年)と刻まれていた。堀川が開削された1610年より8年前に、清須で作られたという証に。現在は複製されたものが取り付けてあり、本物の擬宝珠は名古屋城に展示されている。

08

宮の渡し公園

尾張藩の海の玄関として栄えた「宮宿」の跡地

東海道最大の宿場「宮宿」の
趣を残す公園

家康の時代に交通体系が本格的に整備されたとされる東海道五十三次。その41番目にあたる「宮宿」は、最大規模の宿場として多くの人でにぎわった。そこから現在の桑名市にある「桑名宿」へは東海道唯一の海路で、その距離は当時の単位で七里。そのため「七里の渡し」と呼ばれていた。現在は、船着場があった場所は公園として整備され、憩いの場となっている。

当時の時の鐘(写真)や常夜燈、船着場などが復元

江戸時代の気分を味わおう

東海道をゆく旅人に時刻を知らせた時の鐘は、1676年に尾張藩主・徳川光友の命によってつくられた。現在の時の鐘は、1983年に復元されたもの。ほかにも公園内には常夜燈や船着場などが復元され、当時の雰囲気を醸し出している。江戸時代につくられた鐘は、現在も蔵福寺に大切に保管されている。